「野望」まるけ(笑) な2年間
「あなたの野望」の広報部長TOMOKOです。
2017年4月28日に第1回放送が公開されて、約2年。50組ものゲストさんの野望を聴かせていただきました。
えっ? 49組じゃないか、って?
いえいえ。実は、すでに第50回放送分まで収録済みなのです。
記念すべき、第50回ゲストは、な・な・なんとっ!
まーくんこと、杉浦将直さん(第1回ゲストにも登場してくださっています)
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このブログを読んでくださっている方の特別先行で、「050収録こぼれバナシ」をお届けします。
まーくんは、私がインターネットラジオを始めたいな…と思っていた時に、「やってみなよ!」と背中を押してくれた方の一人です。
第50回ゲスト杉浦将直さん
他にも応援してくれた方がたのおかげで、放送を始めることができました。そして、放送を開始してからも応援してくださった方、ゲストとしてご出演くださった方。放送を聴いてくださった方がた。たくさんの方がたのおかげで、ここまで続けることができました。
お礼と感謝の気持ちを込めて、49回までのゲストさんの野望一覧を掲載させていただきます。
まだ聞いていない回で「面白そうだな」と思ったら、リンクをクリックして聴いてみていただけたら嬉しいです。
ゲストさんの野望一覧(番組聴取URL付き)
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「バッチリ腑に落ちた!」
「あなたの野望」の広報部長TOMOKOです。
「社会貢献」っていうと、なんだかすごく時間もお金もかけて、大きな規模で大勢の人に何かお役に立てることをしなくちゃいけないっていうイメージですよね。
だけど、「自分が心身共に美しく健康である」ことが「社会貢献」になる、っていうとどうですか?
体幹・美尻トレーナーでダンスインストラクターのみぽりんこと、畑山未宝さんの野望は、「女性の美と健康で社会貢献を目指す」こと。
背がすら~っと高くて、美人のみぽりん。ラジオ公開時には、TOMOKOの友人(男性・既婚)から「〇〇さんといい、未宝さんといい、TOMOKOさん界隈はホント美人さん多いですよね~」とメッセージが来るほど(笑)
「類は友を呼ぶのです」
…といいたかったが、絶交されたら悲しいので、やめておきました(爆)
そんなみぽりんの収録こぼれバナシ。
なかなか提出できなかった…という事前ヒアリングシートのお話。
「野望」はぼんやりと思い描くものの「なんかウソっぽい」と感じたそうです。
みぽりんの出してくださった事前ヒアリングシート(一部)ご承諾を得て、掲載させていただきます。
さ
最初に出してくださっていた「野望」は『自分の体に魅了される女性を増やす♡』でした。
もちろん、素敵な「野望」ですが、みぽりんは、もっともっと奥の深いところに「思い」があるようにも感じました。
収録前の事前打ち合わせでいろいろお話をうかがっていくうちに、みぽりんが「ある言葉」を何度も何度も繰り返していたのです。
それが、「女性が美しく、健康であることが社会貢献」だったのです。
ねぇねぇ、もしかしてそっちがホントの気持ちなんじゃないの?
と聴いたとき、「あっ…そうかも (;^ω^)」というみぽりんの表情。
なぜ、それを口に出せなかったのか…。それは「収録こぼれバナシ」で話してくれていますが…「えっ! そんなこと???」っていう理由です(笑)
でもねーーーーーー!!! 「ソコ」の心的ブロック大きいっすよ~!!!
けど、「自分の想い」をガッツリ受け取ったみぽりん。さっそく、何やら飛躍の予感です。
みぽりんの今後の活動は、LINE@で、チェックしてくださいね!
→ https://line.me/R/ti/p/%40wnv1307h
(または、ID:@wnv1307h で検索)
第49回収録こぼれバナシ
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【ご感想】すでに野望を叶えたかのよう!
あなたの野望の応援団長 ホンマルラジオ愛知パーソナリティTOMOKOです。
4月13日は、第29回ゲスト井上敬一さんのご出演回公開1周年記念日!
敬一さんのご出演回聴取URLはコチラ
↓
ってコトで、
敬一さんにご協力いただいた、ラジオご出演の感想をご紹介させていただきます。
質問1 お名まえとご出演回
→ 第29回 井上敬一さん
質問2(省略)
質問3あなたがホンマルラジオ愛知【TOAMOKOのあなたの野望を聴いてみ隊】にご出演くださった動機は?(複数回答可)
〇 ラジオ出演に興味があった
〇 TOMOKOに「野望」を引き出してもらいたかった
質問4事前ヒアリングで気づいたことがおありだとしたら、どんなことですか?(複数回答可)
〇 その他(具体的に)
→ 既に野望を叶えたかのようにTOMOKOさんに話を引き出してもらうことにより、本当に野望が叶っちゃう!
質問5 ホンマルラジオ愛知【あなたの野望を聴いてみ隊】の収録前はどんなお気持ちでしたか?(複数回答可)
〇 わくわくした
質問6 収録はいかがでしたか?
〇 楽しかった
〇 思ったよりスムーズに話すことができた
〇 30分があっという間だった
質問7 ご出演後に心境や環境の変化はありましたか?
〇 あった(質問8へ)
質問8 先の質問で「ある」とご回答の方、それは具体的にどんなコトですか?(複数回答可)
〇 他のメディア(ラジオ・TV・雑誌等)取材、出演のオファーが来た
〇 「ラジオを聴いたよ」と知人・友人に言ってもらえた
〇 なぜかビジネス・人脈の広がりが増えた
〇 自分のビジネスを自信を持って進めることができるようになった気がする
質問9 最後によろしければ、TOMOKOに応援メッセージをお寄せいただけると嬉しいです。
〇 いつも他人の応援団長のTOMOKOさん。その姿勢に感服します! 皆んなの野望を叶えることが野望。これからの世の中に必要なTOMOKOさんにしかできないミッションだと思います! 共に野望を叶えましょう(^ ^)
敬一さん、ありがとうございました。
この放送公開の約10日後にパーティを開催させていただいたのですが、パーティの後で敬一さんに言っていただいたコトが私の宝物になっています。
「自分なんかがパーティを開いて、来たいと思ってくださる方がいるのだろうか?」という思いにさいなまれ、全く告知ができずにいたのです。
「本当に胃が痛くなる思いでした…」と話した時に敬一さんに言っていただいた言葉。
「TOMOKOさん、絶対うまくいくのに、何をそんなに悩むことがあるんですか?」
私は、「えっ?」と聞き返しました。
「今までに、何かうまいこといかへんかったコト、なんかありますか?」
と。
もちろん、良いことばかりではないですが、なんとかなって、こうして生きているわけですよね。
いろんなコト、本当に大変なコトを経験された敬一さんだからこそ、重い一言です。
敬一さんが経験されたコトを考えたら、自分に起きていることなんか、「蚊に刺されてかゆい」ぐらいの事だなと(;^ω^)
ラジオ収録の時、パーティの時…「TOMOKOさんのラジオに出してもらったから、俺、これからめっちゃ売れるわ~(#^.^#)」と嬉しそうにおっしゃってくださった敬一さんの笑顔に、「さすが、元カリスマ…」と感服しました。
収録こぼれバナシも面白いので、ぜひご覧ください。
【シークレット婚活塾】は、その後、海外版の出版も決まり、まだ順調に売れ行きを伸ばしていると聴いています。
井上敬一さんのオフィシャルサイト&知覧合宿のHPもぜひ、チェックしてくださいね。
あなたの野望を全力応援!
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TOMOKOが出来るまで~10代(11)
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TOMOKOが出来るまで
10代
大学時代~~二度目のチャレンジ
1ヶ月中国で中国語漬けになったからといって、ペラペラになれるほどれ中国語は甘くはありません。
それでも、ゼミの先輩に「お前、前よりましになったな」と言ってもらえる程度には上手になったようです。
帰国後、先生にいただいたカセットで結構勉強したのと、先輩に教えてもらったりして、中国行く前よりはかなりできるようになっていたのだと思います。なにしろ1から10まで…(以下省略)
3年生になって、語学研修の募集が近づくころ、母が「(また)行きたいんだったら行ってもいいよ」と言ってくれました。
私たちが3年生になった時、受け入れ先の学校が増えたのです。
私は、少し悩みましたが、北京のその大学の語学研修に申し込むことにしました。
北京第二外国語学院(当時)は、五四運動ともゆかりの深い北京師範学院の流れを汲んでいて、学内に石碑なんかがあって、なかなか興奮しました。
到着して、またクラス分けの試験が行われ、今回も1番上のクラスでした。確か4人…だったような(他のクラスはもっと多かった)。私以外、全員中国文学科で、唯一の男子生徒は団長でした(彼は、翌年長期留学をすることとなり、1988年の天安門事件に遭遇。現地メディアで報道のアルバイトをし、帰国後放送局に就職します)。
担任の先生は、費先生。南京出身でめちゃくちゃ訛ってる先生でした。
…というか、多分そこまで訛ってなかったのかもしれませんが、「ナマの中国語」接触回数が圧倒的に少なく、音声教材の中国語しか聞いていなかったので、「めちゃくちゃ訛ってる」ように感じたのかもしれません。
一番特徴的だったのは、四声が習ったのと違ってる(笑) その「訛り方」には規則的なものがあり、「こう聴こえたけど、標準語ではこういう発音」と脳内変換しながら、聴き取りをする、というクセもつきました。
ある時(出張でこられた?) 中文の先生がうちのクラスで聴き取りに参加したとき、費先生が「先生が一番できてない!」と大爆笑していたことがありました。
それぐらい、「訛りがひど」かったのです。でも、きっと今聞いたらそこまで訛ってないと思うなー。
前年の反省から、「今年は絶対に後悔しないぞ!」と決め、小さいカセットデッキを持ち込み、音声教材も早めに手に入れて、予習復習を(できる限り)しました。
せっかく現地に行ってるので、「ナマの中国語」と触れあうことも心がけました。
それでもやっぱり街の人の中国語はほとんど聴き取れないし、デパートなんかで中国語でモゴモゴ言ってると、日本から団体ツアーでやって来たおばちゃんが日本語で欲しいモノ買っていくのを目の当たりにしたりして、心が折れることもありました。
北京に到着して2週間ほどたったある日、天津の南開大学へみんなで行く、という話が出ました。
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TOMOKOが出来るまで~10代(10)
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TOMOKOが出来るまで
10代
大学時代~中国へのA先生との出会い~
私は、人生の転機で必ず「恩師」といえる方に出会い、導いてもらったと思います。
このブログには全く登場しませんでしたが、中学の時の教頭先生も多大な恩を受けました。
とても厳しい方で、直接褒めてもらった記憶は全くありませんが、この先生のおかげで、大学受験の時まで通用する「国語力」をつけていただきました。
高1の時のクラス担任が、冬期講習を勧めてくれたおかげで、私は早めに大学受験の対策をとることができました。このクラス担任はその後も活躍してくれるのですが、それはまた後のお話。
大学時代の恩師といえば、天津の南開大学でお世話になったA先生(仮名)でしょう。
私たちの大学のサマーセミナーで私のクラスを担当してくれました。
天津に到着して、おそらく当日だったかと思うのですが、全員(約30名)が小講堂か講義室のようなところに集められ、開講式のような小さな式典が行われました。
中国ではこういった外国人の学生が来ると、専門のチームが組まれ授業を担当します。日本ですでにクラス分けが行われていたのですが、前年度の経験から、現地で再度クラス分け試験が行われることになりました。
試験の内容は全く覚えていないのですが、私はどういうわけか一番下のクラスから、一番上のクラスに変更になりました。1から10まで数えられない私が一番上のクラスって、他の人はいったいどういう状況だったのでしょうか???
授業が始まると、それはそれは悲惨でした。まず、「〇ページを開きなさい」っていわれるんですけど、1から10まで数えられない私が聴きとれるわけがありません。
毎回、「どこ?」とクラスメートに聴いていました。授業中も全く聴き取れないし、質問されても答えられた記憶がありません。それでもそのクラスに居続けたのは、「出て行け」といわれなかったコトと、担任のA先生が大好きだったからです。
A先生は、いつもニコニコしていて、優しくて、かわいいおじさんでした。
1ヶ月間の授業が終わるまで、とにかく「中国語」はまったく聞き取れるようにならなかったけれど、A先生がおっしゃっていることだけは、なんとなく意味がとれるようになっていました。
最後の授業が終わったときに、A先生がカセットテープを数本持って来てくださって、「テキストの音声教材だから、帰国したら勉強しなさい」とおっしゃいました。
当時、音声教材は本当に貴重でした。今は市販の語学テキストにCDやダウンロードのMP3がついてるなんて当たり前ですが、当時は2000円から3000円ぐらいの教材(人気が無くて出版部数が少ないので単価が高い!)に、別売りのカセットテープ2本5000円とか当たりまえでした。とても大学生が買える値段ではなく…。
私は、A先生が大好きだったのに、午前中の授業が終わると復習も予習もせず、自転車(滞在中、1人1台貸出されました)に乗って街にふらふら遊びに出かけるばかりでした。
もっと勉強すればよかったなー、という後悔もあり、帰国後、A先生や、食堂で働いていた同い年の女の子に手紙を書いたりして、文通を続けていました。
もう、二度と会えないのかもしれない…と思うと、寂しくもあり、一方ではまた会えるような氣もしていたのです。
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TOMOKOが出来るまで
10代
大学時代~中国への語学研修~
私の母は、歌手のさだまさしさんが好きでした。
何がきっかけだったか覚えていませんが、中学時代にはすでにファンで、
ファンクラブの「まさしんぐわーるど」に入っていたように思います。
私が高校生の頃だったか、さださんが「長江」というドキュメンタリー映画を制作しました。この映画は興行的には失敗作品だったと思いますが、1980年代のナマの中国の姿を記録したもので、今ではとても貴重な資料になっているのではないでしょうか。
そして、私は日本の古代史が大好きで、特に奈良時代。遣唐使・遣隋使が活躍した頃の、「日本のあけぼの」ともいえる時代にとても興味を持っていました。
日本の始まりに大きな影響を与えた「中国」という国を見てみたい、と思っていました。
今では、大学のサマーセミナーは珍しくないですし、中国という国も「危険な未開の地」というイメージは全くありません。
しかし当時は、そうではありませんでした。
「中国に行く」のは、かなりの「決死の覚悟」的なものが必要…だと思われていました。
TVもない。トイレも隣との仕切りが無いらしい。電話も(簡単には)つながらない。手紙も航空便でも2週間近くかかる。近くて遠い隣国でした。
でも、だからこそ「大学から連れて行ってもらえる」というのは魅力でした。
そんなこともあって、その大学を第一志望にしました(他にも理由はいろいろありますが)。で、見事に(スレスレでw)合格して、大学2年になり、サマーセミナーに参加することができました。
私は、大学では法律学専攻でした。で、中国語は第2外国語。当然、2年生になっても、全く話せるようにはなっておらず。語学研修のクラス分けのための事前試験でもさんざん(確か、3つあるなかの一番下のクラスだった記憶が)な結果。何しろ、1~10まで中国語で数えることすらできませんでした。
7月のある暑い日。天津に到着した私たちは、猛暑の中、冷房設備もないボロボロの宿舎に落ち着くと、ほぼ絶望状態でした。
1年前の先輩が、外国人教員のための宿舎を利用していたのを聴いていたので、同じところだと思っていたら、そうではなく(こういうことはよくある)、「招待所」という施設でした。狭くはないけれど(私たちは3人部屋だったので割と広い部屋だったのです)、とにかくボロボロ(笑)
文句を言ってもどうにもならないのですが、とりあえず文句をぶーぶー言っていました。食事も口に合わず。おかゆか白いご飯にたまに食べられるカレー味のついたじゃがいもや、卵スープと、日本から持って行った梅干しとわかめスープとお菓子で生きながらえていたような感じでした。
これから約1ヶ月半の間、どんな暮らしになるのか、とただただ絶望しかありませんでした。
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TOMOKOが出来るまで~10代(8)
TOMOKOが出来るまで
10代
大学時代
当時、四年制の大学に進学する女子がまだそこまで多くなかった頃。
法律学専攻という進路もかなりめずらしかった時代。
中学・高校と女子校で過ごして来た私は、大学に入ると男女比が逆転(…というか、初めて校内に男子がいる状況に)、男子9:女子1の生活を送るようになりました。
…ってゆーと、「モテたんじゃないか」とか「お姫様扱いされたんじゃないか」と思われるのですが、現実は全くそんなコトはなく。
あ、一部の可愛い女の子(のちに私の親友となる)は、めちゃくちゃモテてましたけどね(笑)
「世の中、可愛い女子は得!」というキビシイ現実を思い知ることになります(爆)
当時はもちろん、「可愛い女子」の中に自分は入っていません。
(まさか、50代になって「可愛い女子」カテゴリーに入れていただけることになるとは、当時は1ミリも想像していませんでした)
それなりに恋愛的なことも経験したり、楽しい大学生活でした。
なんといっても一番の変化は、それまで「優等生」だった私は、初めて「下から数えた方が早い」存在になったコトでした。
大学受験の成績は、合格最低点の1点か2点上の超スレスレだったそうです(高校の先生が教えてくれたけど、褒めたかったのか、disりたかったのかw)
「可愛い女子」じゃないから、何やっても目立たないし(笑)、(成績良くないから)「成績良いからね~」とかいわれないし。
今振り返ると、大学時代、全く勉強の仕方がわからず、「がんばって勉強した」つもりでも、試験の成績は「良」とか「可」(;^ω^) 「優」の数がホント少ない、「出来ない」ヤツでした。
中部地区の私立大学で、中堅より少し下(当時)。その中でもぎりぎりで合格していた私は、初めて「実力相応」の扱いを受けることになり、自分の人生の中で初めて「ラクに呼吸ができた」時代だったような氣がします。
あまりに弾けすぎて、なかったことにしたい過去なんかもありました(笑)
当時、サークルで「校内でミニFM局を立てて、昼休みに放送する」というのがあって、そこに入っていたのです。今考えたら…いや、2年の途中で退部したのですが、退部して以降「何やってたんだ(;^ω^)」と恥ずかしくて、なかったコトにしてました。
放送部的なことに憧れがあったのですが、そこでもやっぱり「壁」というか、タレント事務所に所属していたり、アルバイトでイベントMCをやったりしている美人の同級生がいたのです。彼女は、卒業してから一旦証券会社に就職するのですが、数年で退職。その後名古屋のFM局の仕事をしたり、ブライダルやイベントのMCさんになりました(多分、今もやっている)。
私の人生の中で、「何をやっても、誰か(または何か)が立ちはだか」って「諦める」というパターンを繰り返していました。
大学時代で一番思い出深いのは、2年と3年の夏休みに大学からサマーセミナーで中国に行ったことでしょうか。
この2回の渡中は、その後の私の人生に大きな影響を与えることになります。
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