TOMOKOが出来るまで~10代(11)
<前の記事>
TOMOKOが出来るまで
10代
大学時代~~二度目のチャレンジ
1ヶ月中国で中国語漬けになったからといって、ペラペラになれるほどれ中国語は甘くはありません。
それでも、ゼミの先輩に「お前、前よりましになったな」と言ってもらえる程度には上手になったようです。
帰国後、先生にいただいたカセットで結構勉強したのと、先輩に教えてもらったりして、中国行く前よりはかなりできるようになっていたのだと思います。なにしろ1から10まで…(以下省略)
3年生になって、語学研修の募集が近づくころ、母が「(また)行きたいんだったら行ってもいいよ」と言ってくれました。
私たちが3年生になった時、受け入れ先の学校が増えたのです。
私は、少し悩みましたが、北京のその大学の語学研修に申し込むことにしました。
北京第二外国語学院(当時)は、五四運動ともゆかりの深い北京師範学院の流れを汲んでいて、学内に石碑なんかがあって、なかなか興奮しました。
到着して、またクラス分けの試験が行われ、今回も1番上のクラスでした。確か4人…だったような(他のクラスはもっと多かった)。私以外、全員中国文学科で、唯一の男子生徒は団長でした(彼は、翌年長期留学をすることとなり、1988年の天安門事件に遭遇。現地メディアで報道のアルバイトをし、帰国後放送局に就職します)。
担任の先生は、費先生。南京出身でめちゃくちゃ訛ってる先生でした。
…というか、多分そこまで訛ってなかったのかもしれませんが、「ナマの中国語」接触回数が圧倒的に少なく、音声教材の中国語しか聞いていなかったので、「めちゃくちゃ訛ってる」ように感じたのかもしれません。
一番特徴的だったのは、四声が習ったのと違ってる(笑) その「訛り方」には規則的なものがあり、「こう聴こえたけど、標準語ではこういう発音」と脳内変換しながら、聴き取りをする、というクセもつきました。
ある時(出張でこられた?) 中文の先生がうちのクラスで聴き取りに参加したとき、費先生が「先生が一番できてない!」と大爆笑していたことがありました。
それぐらい、「訛りがひど」かったのです。でも、きっと今聞いたらそこまで訛ってないと思うなー。
前年の反省から、「今年は絶対に後悔しないぞ!」と決め、小さいカセットデッキを持ち込み、音声教材も早めに手に入れて、予習復習を(できる限り)しました。
せっかく現地に行ってるので、「ナマの中国語」と触れあうことも心がけました。
それでもやっぱり街の人の中国語はほとんど聴き取れないし、デパートなんかで中国語でモゴモゴ言ってると、日本から団体ツアーでやって来たおばちゃんが日本語で欲しいモノ買っていくのを目の当たりにしたりして、心が折れることもありました。
北京に到着して2週間ほどたったある日、天津の南開大学へみんなで行く、という話が出ました。
ホンマルラジオ愛知
はインターネット環境と端末さえあれば、いつでもどこでも聴けるインターネットラジオ局の番組です。
LINE@へのご登録もお待ちしています。