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TOMOKOが出来るまで~10代(9)

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TOMOKOが出来るまで

10代

大学時代~中国への語学研修~

 

私の母は、歌手のさだまさしさんが好きでした。

 

何がきっかけだったか覚えていませんが、中学時代にはすでにファンで、

 

ファンクラブの「まさしんぐわーるど」に入っていたように思います。

 

私が高校生の頃だったか、さださんが「長江」というドキュメンタリー映画を制作しました。この映画は興行的には失敗作品だったと思いますが、1980年代のナマの中国の姿を記録したもので、今ではとても貴重な資料になっているのではないでしょうか。

 

 

そして、私は日本の古代史が大好きで、特に奈良時代遣唐使・遣隋使が活躍した頃の、「日本のあけぼの」ともいえる時代にとても興味を持っていました。

 

 

日本の始まりに大きな影響を与えた「中国」という国を見てみたい、と思っていました。

 

 

今では、大学のサマーセミナーは珍しくないですし、中国という国も「危険な未開の地」というイメージは全くありません。

 

しかし当時は、そうではありませんでした。

 

「中国に行く」のは、かなりの「決死の覚悟」的なものが必要…だと思われていました。

 

TVもない。トイレも隣との仕切りが無いらしい。電話も(簡単には)つながらない。手紙も航空便でも2週間近くかかる。近くて遠い隣国でした。

 

でも、だからこそ「大学から連れて行ってもらえる」というのは魅力でした。

 

そんなこともあって、その大学を第一志望にしました(他にも理由はいろいろありますが)。で、見事に(スレスレでw)合格して、大学2年になり、サマーセミナーに参加することができました。

 

 

私は、大学では法律学専攻でした。で、中国語は第2外国語。当然、2年生になっても、全く話せるようにはなっておらず。語学研修のクラス分けのための事前試験でもさんざん(確か、3つあるなかの一番下のクラスだった記憶が)な結果。何しろ、1~10まで中国語で数えることすらできませんでした。

 

 

7月のある暑い日。天津に到着した私たちは、猛暑の中、冷房設備もないボロボロの宿舎に落ち着くと、ほぼ絶望状態でした。

 

 

1年前の先輩が、外国人教員のための宿舎を利用していたのを聴いていたので、同じところだと思っていたら、そうではなく(こういうことはよくある)、「招待所」という施設でした。狭くはないけれど(私たちは3人部屋だったので割と広い部屋だったのです)、とにかくボロボロ(笑)

 

文句を言ってもどうにもならないのですが、とりあえず文句をぶーぶー言っていました。食事も口に合わず。おかゆか白いご飯にたまに食べられるカレー味のついたじゃがいもや、卵スープと、日本から持って行った梅干しとわかめスープとお菓子で生きながらえていたような感じでした。

 

これから約1ヶ月半の間、どんな暮らしになるのか、とただただ絶望しかありませんでした。

 

 

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