TOMOKOが出来るまで~幼少期
TOMOKOが出来るまで
幼少期
1965年11月9日。大阪市のとある病院で、会社員の父、専業主婦の母のもとに長女として生まれました。
若かった(22歳)母は、私をわがままにしないように、と厳しく育てる日々。
当時の日本は、高度経済成長の真っただ中。大手(当時)家電メーカーのTV設計技師だった父は、もちろん毎日忙しく。
父の出勤時、母に抱かれて見送りに出た私は父に対して、「バイバイ~! また来てね~!!!」と大きな声で叫び、両親を狼狽させたそうです。
幼稚園にあがるぐらいまでの記憶は、かなり断片的ですが、同じアパート(関西にある「文化住宅」という形態)の1つか2つ年下の女の子とウルトラマンごっこをした記憶があります。当時はかなり「男の子」っぽかったようで、ヒロインよりはヒーローに憧れる(かなり変わった)女の子でした。
また、私の記憶にはありませんが、幼稚園の卒園間近に男の子と取っ組み合いのけんかをして、椅子を投げて教室の窓ガラスを割った…らしいです(一体どんなストレスが溜まっていたのやら…)。
両親は、一人っ子の私を彼らなりに十分に大切に思い、愛して育ててくれたと思いますが、今思い返すと、ところどころ「それは…どうだったのだろうか」と思うこともあります。
自分では母とは仲が良かったと思っていましたが、よくよくよ~~~く思い返してみると、小学校ぐらいまでは、「わかってもらえない」と感じていたように思います。
あと、「嫌われたら捨てられる」という思いも抱いていたかもしれません。
幼稚園ぐらいの頃、母に叱られたときのこと。
母は、私に対して言葉で諭そうとしたようで、叱られて泣いている私に「ほんまにわかったん?」と聴きました。「なんで叱られたのか、説明し」ともいわれていました。← 理屈っぽい子どもが出来上がる
また、ある時は、母が「いうこと聴かへんねんやったら、出て行き!」と、玄関から放り出されて締め出されたこともあります、また、夜間など、さすがに締め出すのは危ないと思う時間だったのか、逆に「あんたが出て行かへんのやったら、ママが出ていく!」と、ハンドバッグを持って(←なぜか、ココすごく鮮明)出て行ったこともありました。
締め出された玄関の前で、泣き叫ぶ私を近所の方は「あんな厳しくせんでもええのに」と言っていたといいます。…が、そういっていたおばさんは、のちに自分の子どもが出来た時には、もっと厳しくしつけていた、というオチが…(笑)
締め出された私が、どのタイミングで許されたのか、また出て行った母親がどのタイミングで帰宅したのか、そこは全く覚えていませんが、
私は、「機嫌を損ねれば捨てられる」という思いを抱きながら幼少期を過ごしていたのではないかと思います。ただ、だから「いつも母親の顔色をうかがう」こともなく、結局また「いいつけに背いて」叱られる…を繰り返していたのだと思います。
締め出して子どもがどこかへ行かないか…という心配がなかったのか、という疑問もあるかと思いますが、歩いて1分のところに母方の祖母が住んでいました。きっと「どこか」へ行くとしたら、そこへ行くだろうと母も読んでいたのだと思います。
そんな我が家は、私が幼稚園を卒園するタイミングで、祖母宅の近くから違う市へ引っ越すことになりました。
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