TOMOKOが出来るまで~10代(1)
TOMOKOが出来るまで
10代
小学校時代
生まれてから幼稚園時代は、祖母宅の近くに住んでいたので、よく遊びに行っていました。
祖母は、まだ若く(私とは44歳差)、家で仕事をしていたので、祖母の仕事場が遊び場で、祖母の仕事道具も遊び道具でした。
祖母の仕事場にはいつもAMラジオが流れていたように思います。
そして、祖母の仕事場にあるTVでは、私が好きな番組を見ることができていたように思います。
祖母は洋裁の仕事をしていたので、ミシン糸の軸がたくさんあり、それをマイク替わりにしてTV番組の「のど自慢」ごっこを祖母としていました。
私は小さい時からよくしゃべる…というか、質問の多い子で、祖母がおんぶをして外をお散歩していると、「ちゃぁちゃん(←関西では年齢が比較的若い時の孫には、おばあちゃんではなく、“ちゃあちゃん”と呼ばせる文化があるようです)!あれはナニ?」と始終祖母に聴くので、「ともこと散歩行ったら、恥ずかし恥ずかしい!」と嘆いていたそうです。
「よく喋る」といえば、一人でもしゃべっていたように記憶しています。祖母宅のお手洗いは、居間から少し離れていたので、一人で行くのが寂しく、一人で何かしゃべりながら用を足していた記憶があります。
また、この時いつも思っていたのは、「今、迎えに来たらどうしよう!」ということでした。今から思えば、自分は「どこか違う星から来た」と思っていたのでしょう。
当時はよくわかりませんでしたが、かぐや姫のように月から馬車や輿が迎えに来て、連れ去られてしまう恐怖におびえていたのです。
要するに、「変な子」でした。
小学校に上がってもマイペース、授業参観の際(背が低かったので)一番前の席に座っていた私は、授業(参観)中も先生に喋りかけていたそうです。←ココ全く記憶無し
ふと、静かになったなーと思うと、おもむろに水筒を出して、お茶を飲み始めた…とか。今では「水分補給」が重要視され、講義中でもお茶を飲んだりできることも多いですが、当時としては「授業中にお茶を飲む」など言語道断の無礼行為。
ましてや、参観日。多くの保護者の方の面前で…。
母は顔から火が出るほど恥ずかしかったそうです(この話を聴いたのは、高校か大学に入ってからでした)。
幼稚園を卒業して引っ越しをしました。そこは1年間だけ通って、2年生からはまた元の学区(祖母宅)に引越しをしました。
幼稚園の時に知っていた子も多かったと思うのですが、1年のブランクは大きく、なぜかあまりなじめなかった記憶があります。
4年生の後半にまた引っ越しをしました。家があった場所は、学区の境を1本越えたところで、いわゆる越境通学となりました。住所は祖母宅のまま、通学のグループは自宅の一番近いところに入れてもらう…といういびつな形での通学は、幼い私に、「知られてはいけないヒミツ」を抱えているような小さなストレスになりました。
5年の終わりか6年になって、父が勤務する事業部全体が岐阜に移転することになりました。私が小学校を卒業するまでは、父が単身赴任し、中学からは父の実家のある名古屋市に引越すこととなりました。
小学生の時にも十分に「変な子」だったと思いますが、それなりにはなじんでいたのでしょう。
名古屋に引越すことになった時、「お別れ会」と称して家にお友達に来てもらって、パーティ的なことを開いた記憶があります。
名古屋に引越すことに大きな不安はありませんでしたが、名古屋で直面した「文化の違い」にはとまどうばかりだったのです。
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